「聲の形」とはいじめと障がい者差別をテーマにした青春群像劇です。
原作は大今良時先生が週刊少年マガジンにて連載していた漫画で、累計300万部の大ヒットを記録、2016年には京都アニメーションによる映画化もされました。
テーマがテーマだけに中々にいわくつきの作品で、原作は予め弁護士と全日本ろうあ連盟の監修のもと製作されました。
実際、原作を読むと際どい描写が多く、アニメでは若干マイルドな表現に変更されましたがそれでも心に激しい痛みを伴う作品です。
「聲の形」あらすじがアニメと原作で異なる
水門小学校の6年生、石田将也はクラスのリーダー格で島田、植野とつるんではいたずらを繰り返してきた。
そんなある日、西宮硝子という聴覚障害を持った女の子が転校してくる。
障害のせいで硝子はクラスに迷惑をかけ、結果、いじめの標的となる。将也は率先して硝子をいじめていたが、いじめが学校で問題となり、今度は将也がいじめの標的となった。
将也はいじめのトラウマによって極度のコミュニケーション障害になってしまい、他人の顔を見ることが出来なくなってしまう(その表現方法として他人の顔にバッテンがつけられる)。
高校3年になり将也は自殺を計画するも、その前に硝子に謝ろうと手話をマスターし、彼女に会いに行く。
将也と硝子、2人の再会が彼らだけでなく周りの人物の人生も変えていく。
これがアニメのあらすじですが、原作とは以下の点で異なります。
映画製作の下りがカット
将也は初めてできた友人の永束の提案で映画製作をするのですが、その過程で小学校や高校の友人を集め、硝子とともに失われた小学校時代の絆を取り戻す下りがアニメではカットされています。
そのせいで硝子が小学生の時犯した音楽コンクールでの失態とトラウマの回復、将也と硝子以外の登場人物の心の機微が分かりにくくなっています。
将也のアクシデント以後の登場人物の描写がカット
将也は自殺しようとする硝子を助けようとして大けがを負い意識不明になるのですが、その間の他の登場人物の動きがアニメではカットされています。
そのため将也と硝子以外の人物が各人持っていたトラウマの回復、とくに植野が硝子を執拗にいじめていた理由が分かりにくくなってます。
将也と硝子、他の登場人物の進路がカット
将也が意識を回復後、高校の文化祭に参加しそこではじめて将也は他人の顔を見ることが出来るようになり、今までついていた顔のバッテンがとれて、そこでアニメは終了です。
原作はその後、将也と硝子が理容師に、他の人物の進路も描かれます。
この進路の部分をアニメはカットしているので将也と硝子の関係、彼らと他の登場人物の関係が希薄になり、本作のテーマである「贖罪と再生」がわかりにくいです。
結弦の出番と役割の大幅カット
硝子の妹である結弦、彼女は将也と硝子にならぶ主人公なのですが、原作よりも出番が大幅にカットされており、彼女が担う「思いは言葉にしないと伝わらない」という本作の重大なテーマがアニメではわかりにくくなっています。
聲の形の原作に比べ、アニメは抽象的で難解
原作は登場人物の名前や各カットにこめられた深い暗喩が読み込めるのですが、アニメではそういった「考察がしにくい」という現象が生じています。
登場人物の名前に込められた意味
例えば「石田将也」は「石で人の心を割る、またはコミュニケーションの壁を打ち砕く」、「将(リーダー)」という意味があります。
また「西宮硝子」は「硝子(ガラス)のような繊細な心」、「”西宮”は西宮市にあるえびす神社の祭神で、障害をもった渡来神で福の神」の意味があります。
他にも「植野直花」は「直情的、まっすぐな物言いで人を傷つける」、「西宮結弦」は「弦は弾くことで振動が伝わり聴覚障碍者にも聞こえる音。転じて彼女が硝子を外界と結びつけるキーパーソン」の意味があります。
しかし、アニメではここまで読み込むことが出来ません。
鯉の暗喩
アニメでも硝子が鯉にエサをやるシーンはたびたび出てきますが、原作では鯉が繰り返しカットインされます。
この鯉、実は本作の重要なテーマで現在も議論が続いているのですがアニメでは単なる背景としてしか描写されておらず、意味をなしていません。
この鯉ですが、原作では将也のアクシデントの際に将也の臀部の肉を食べるという設定があり、これにより将也の「贖罪」は完成するのですが、アニメではこの設定を生かした描写がありません。
「マイノリティたちの物語」というテーマ
例えば将也も硝子もシングルマザーの家庭で育つのですが、アニメではその部分はクローズアップされておらず、「いじめの本質はマイノリティへの迫害」という問題の本質に踏み込めていません。
また結弦が男性の格好をしたり男言葉で話すこともLGBTですし、植野は父子家庭で貧困という「いじめの標的となる要因」を抱えており、彼女がいじめから身を守るため将也や硝子をいじめたという問題の本質を描いていません。
さらに佐原という硝子の小学生時代の唯一の友人でいじめの標的になり不登校になった人物がいるのですが、原作では彼女は植野と恋仲になるLGBTというマイノリティ問題まで描いています。
悪役の不在
彼らは硝子が聴覚障害であることは将来面倒になるからという理由で母親に押し付けて離婚するのです。
しかしアニメでは父親は登場せず、物語の根幹をなす悪役がいないのでストーリーに奥行きが感じられません。
また小学校の担任が原作とアニメ双方に出ており、いじめ問題を将也に押し付けます。
原作では先生はいじめを見てみぬふりをしながら問題が顕在化したら将也に押し付ける悪役ぶりを見せるのですが、アニメではあっさりと表現されており悪役としての性格は希薄です。
宗教的テーマ
硝子をいじめた将也がいじめられる、硝子をいじめた植野の将也に対する恋が成就しない、など「結果の種は自分がまいたもの、だから自分で刈り取れ」というテーマが散見されます。
しかしアニメでは「将也が硝子と関係を築く」という一点に絞られており、因果応報というテーマは希薄と言えます。
また原作で硝子がパンを鯉にあげたり、結弦が祖母としそジュースを飲むシーンがあるのですが、キリスト教のパンとワインにちなむものであり、本作のテーマである「贖罪」を暗喩しています。
しかし、アニメでは原作のようにこれらのシーンが何度もリフレインされていないのでこのテーマに気づくのは難しいです。
映画「聲の形」のアニメが原作に勝っている部分
2016年9月17日『映画 聲の形』が公開されました。#聲の形#京都アニメーション pic.twitter.com/WaImCecDbR
— けいおん!きねんび! (@K_onkinenbi) September 16, 2020
「アニメが原作に勝ることはありえない」とよく言われます。
実際、私が見てきた中でアニメが原作に勝ったのは「ガンスリンガーガール 1期」くらいのものでした。
では本作のアニメが原作に勝っている部分はあるのでしょうか。
小学校時代のいじめの描写がマイルド
原作での硝子と将也に対するいじめのシーンは過激でみていられません。
しかしアニメではワンカットで描いており、見ていて苦痛に感じません。
とっかかりとしてはアニメを見てから原作を読むことをおすすめします。
心理描写が秀逸
京アニ特有の、目線による人物の心理を表現する手法は本作でもいかんなく発揮されています。
ただ原作を読み込まないと気づかないという欠点はありますが、それでもさすが京アニと言わざる得ません。
とくに植野が将也に恋心を抱いてることの描写として、植野が将也の自転車にのるシーンで腰の部分だけをクローズアップして「恋愛感情」を表現した点はアニメ映画屈指の名シーンといえるでしょう。
原作の補完がなされている
硝子は右耳の聴覚が作中失われるのですが、原作では補聴器がいつのまにか1つになっていて違和感があります。
しかしアニメではそのことを硝子が医師に告げられるシーンを補完しており、分かりやすくなっています。
また将也の母の右耳から血が流れるカットがアニメでは入っており、原作にはないこのシーンの追加により将也の母に対する「贖罪」のテーマも補完されています。
「聲の形」アニメと原作、どちらがおすすめか
聲の形を初めて見ましたが映像が綺麗でビックリ!
— ゆるポタsugi (@SugiPinarello) August 20, 2020
ただ見るの辛かったです😅 pic.twitter.com/sb2ukUAeSg
原作と違ってアニメは大幅なカットがある反面、原作の難解な点を補完しています。
ですからアニメをとっかかりとして、原作を読むことをおすすめします。
アニメだけでは「ボーイミーツガール」というミスリーディングをしてしまう可能性があるからです。
大今先生は本作は恋愛ものではないと断言しています。
重厚なテーマを扱った本作は原作を繰り返し読み込まないと「感動ポルノ」という誤った評価を犯してしまいます。
ですからあくまでアニメは原作の補完として、原作を何度も何度も繰り返して読むことをおすすめします。